(新)後藤仁のスロー・クルージング
軍事関係図書(洋書中心。自腹で購入!)の書評と日々の雑感
旧ブログ…
リヒトフォーフェンとフォッカーDr.I その2
コロコロ二はしかられそうだが、単行本の仕事をやらなくてはいけないにもかかわらず、下調べ以上に進んでいない。これではいけないとは思うのだが、どうにもやる気がおきないのだ。

というわけで、今日(8月18日)もこのブログを書き終えたら図書館で借りてきた小説を読み、2時からは巨人戦を見ながらビアタイムに突入だ。。なんという充実した一日よ。って喜んでいる場合じゃないんだけれどな。まっいいか。

さてここからは前回の続きで、本題に入る前にまずフォッカーDr.Iについて少々。というのも、他人のブログを読んでいたらDr.Iの生産機数が少ないのは、当初から大量生産は考えておらず名パイロットのみへの配備を念頭においていた云々との記述を見つけたからだ。

昔ならばともかく、近代の兵器生産を考えるとそれはおかしくないか。改造機、例えばBf109Fの主翼に武装を追加したガラント・スペシャルのような例ならばいざ知らず、最初からそのような機体を生産するなどということはまず考えられない。ということで調べてみた。

すると、当初は少なくとも西部戦線に展開する戦闘航空団だけでも全機をDr.Iに換装することを考えていたことが判明した。だったらなぜDr.Iの生産機数が少ないのか。それはわずかに遅れてさらなる高性能機が誕生したからに他ならない。

その機体は、第一次大戦における最良の戦闘機と謳われたフォッカーD.VIIの存在であった。機動性と上昇力こそDr.Iに劣るものの、その他の性能は大きく上回り、特にその速度差は圧倒的で総合的には文句なしにDR.Iを凌駕した。

そしてDr.Iが1917年11月頃から飛行隊レベルでの運用が一般化したのに対し、1918年5月よりD.VIIは実戦化されたのでその差は6ヶ月にも満たず、さらにDr.Iには致命的な問題も存在した。それは構造が脆弱で、激しい機動や急降下を行うと破損する例が多数報告されたことだ。

このためドイツ空軍はDr.Iの生産を1918年5月で中止し、以後はD.VIIの生産に傾注することになった。このためDr.Iは有名機であるにもかかわらず、その生産はわずか320機に過ぎなかったのだ。

ここで話をリヒトフォーフェンとの関係に戻そう。最初に彼がRE.8を撃墜した機体102/17の塗装は工場出荷時、すなわち全面ライトブルーに主、尾翼と胴体上面を右に傾斜したオリーブドープでかすれるように塗り(その傾斜角は、翼上面が約10度、胴体上面が約20度)、同じく胴体側面を同色で垂直にかすらせるという、他の戦闘機などとは大きく異なる独特の塗装が施されていた。

彼はこの機体で2機の撃墜を記録した後、機体をDr.I 152/17に換えて3機を撃墜した。この機体は工場出荷時の塗装に加えて、カウリングと上翼上面、主翼支柱、車輪ハブ、コクピットから後方の胴体上面、胴体側面のアイゼルネスクロイツの前端から後方の胴体および尾翼を赤で塗装していた。

次に乗機とした477/17は152/17と同じ塗装が施されて9機を撃墜したが、この機体が彼のDr.Iによる最多撃墜機となった。そして次に乗機として3機を撃墜した127/17も、塗装は477/17をそのまま受け継いでいる。

そして彼の最後の乗機となり2機を撃墜した425/17は当初477/17と同じ塗装が施されていたが、1918年3月に以前のアルバトロスD.IIIおよびD.Vと同様に、全面をグロスの赤で塗装した。

そして4月に入って間もなく、各部に描かれた裾広がりのアイゼルネスクロイツを、単純な直線に改めたバルケンクロイツに描き換え、垂直尾翼を白に塗るという変更が加えられた。

そしてこの機体が、1918年4月21日の戦闘で彼が散華した際の乗機となった。また撃墜記録はないが、119/19と161/17にも搭乗したことが知られている。
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三葉機と言えば
イギリスのソッピース・トリプレーンもありますが…
これも構造が弱かったらしいですね。

三葉機が一般化しなかった理由を調べると面白いかも。
2013/08/18(日) 18:58:44 | URL | やまちゃん #mQop/nM. [ 編集 ]
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